日本最古の湯、道後温泉の魔力

「道後温泉本館」の木造三層楼の建物は、まさに日本の温泉文化のシンボルだ。 夕闇が迫り、振鷺閣(しんろかく)の赤いガラス窓に灯りがともると、その姿は『千と千尋の神隠し』の油屋を彷彿とさせる幻想的な雰囲気を纏う。 明治の文豪・夏目漱石も愛した「神の湯」に浸かれば、三千年の歴史が身体の芯まで染み渡るようだ。 湯に浮かぶのは、聖徳太子の時代から人々を癒やしてきたという伝説の重み。 脚を傷めた一羽の白鷺が、湧き出る湯に浸かって癒えたという開湯の物語は、今もこの土地の名前と紋章のなかに静かに息づいている。 館内は迷路のように入り組み、急な階段を上れば、漱石が句会を開いたと伝わる「坊っちゃんの間」も残されている。 湯上がりに浴衣のまま縁側に腰かけ、茶と煎餅で一服する時間は、近代以前から続く湯治場の作法そのもの。 湯の温度も、木の軋みも、湯気の匂いも、すべてが急がない時間の流れを思い出させてくれる。 朝、刻太鼓の音で目覚める贅沢は、ここだけの特権である。

Magical twilight view of Dogo Onsen Honkan
湯婆婆が現れそうな、宵闇の道後温泉本館。レトロとファンタジーが静かに交錯する。

坊っちゃんが歩いた、文学の城下町

松山は、日本でも稀有な「文学の街」である。 夏目漱石が教師として赴任したこの地は、後に名作『坊っちゃん』の舞台となった。 路面電車がコトコトと走る街並みは、どこか明治の面影を残し、ノスタルジーをかき立てる。 そして忘れてはならないのが、正岡子規だ。 近代俳句の礎を築いた巨人を生んだこの街は、いたるところに句碑が立ち、ポストに投句できる仕掛けまである、まさに「俳都」。 街の中心にそびえる松山城は、現存十二天守のひとつ。 ロープウェイで城山に登れば、瀬戸内へと開けた城下町を一望できる。 複数の小天守と櫓を渡櫓で結んだ連立式天守の堅牢な構えは、戦に備えた往時の知恵をそのままに、四百年の時を越えて今も街を見守っている。 春には城山一帯が桜に包まれ、堀端の道は花のトンネルとなる。 城のふもとには漱石ゆかりの旧居や子規の記念施設も点在し、文学散歩の足は尽きることがない。 路面電車に揺られながら、街角の句碑を一つずつ拾い読みしていく——そんな歩き方こそ、この俳都にふさわしい。

海を駆ける、しまなみ海道

愛媛県今治市と広島県尾道市を結ぶ「しまなみ海道」は、世界中のサイクリストが憧れる聖地だ。 眼下に広がる瀬戸内海の多島美、頬を撫でる潮風、そして海の上を滑走するような浮遊感。 自動車では味わえない、五感をフルに使った旅がここにある。 複数の島を橋で渡り継いでいく道のりは、まるで群島の上に描かれた一本の白い線。 途中、伯方島の塩ラーメンや、大三島の海鮮、そして日本総鎮守と称される大山祇神社への寄り道など、島ごとの表情を楽しみながらペダルを漕ぐのもまた一興だ。 本州と四国を結ぶこの海道は、橋脚の一本一本に造船と海運で栄えた瀬戸内の歴史が刻まれている。 起点となる今治は、世界に名を知られたタオルの産地であり、造船の街でもある。 柔らかな白いタオルと、巨大な船を生み出す鉄の技術が同じ町に同居しているのも、ものづくりに長けた瀬戸内らしい。 橋の上から見下ろせば、来島海峡の渦潮と、行き交う船の航跡が織りなす一幅の絵。 全長を一日かけて渡りきる本格派から、一つの島だけをのんびり巡る旅人まで、それぞれの体力と気分に合わせて距離を選べるのも、この海道のふところの深さである。

Cycling on Shimanami Kaido bridge
空と海の間を走り抜ける。サイクリストだけに許された、絶景のパノラマ。

太陽と潮風の恵み、愛媛みかん

愛媛県は、全国でも指折りの柑橘王国だ。 瀬戸内の温暖な気候と、海からの潮風、そして段々畑に降り注ぐ太陽の光。 空から直接降り注ぐ日差し、海面に反射する光、石垣がたくわえ放つ熱——「三つの太陽」を浴びて育つというみかんは、濃厚な甘みと爽やかな酸味のバランスが絶妙だ。 温州みかんから始まり、伊予柑、せとか、そして高級品種「紅まどんな」へと、冬の食卓を彩る品種は数えきれない。 とりわけ紅まどんなのゼリーのような食感は、果物の常識を覆すだろう。 海へとなだれ落ちる段々畑が一面みかん色に染まる頃、愛媛は最も愛媛らしい表情を見せる。 急峻な斜面に積み上げられた石垣の段々畑は、先人たちが海と山のわずかな隙間を切り拓いてきた労苦の結晶でもある。 冬に蛇口をひねればみかんジュースが出る、という愛媛の人々の冗談には、それだけ柑橘が暮らしに溶け込んでいるという誇りが滲んでいる。 旅人なら、土産物店の搾りたてジュースや、品種を選んで買える直売所で、その甘さを確かめてほしい。 一粒口に含めば、瀬戸内の陽だまりがそのまま舌の上にほどけていくはずだ。

Ripe mandarin oranges overlooking the sea
段々畑から望む瀬戸内海。青い海とオレンジ色のコントラストは、伊予の国の原風景。

白壁の町と、南予の素顔

華やかな松山や賑わうしまなみから少し足を延ばせば、愛媛のもうひとつの顔に出会える。 内子は、かつて木蝋(もくろう)の生産で栄えた町。 白漆喰と浅黄色の壁が連なる町並みは、商家の繁栄の記憶を今に伝え、芝居小屋・内子座には往時の華やぎが息づいている。 さらに南へ下れば、「伊予の小京都」と呼ばれる大洲。 肱川(ひじかわ)のほとりに城がたたずみ、夏には鵜飼いの篝火が水面を照らす。 そして県の南端・宇和島は、闘牛の伝統が残る城下町だ。 リアス式の海が育む真珠の養殖、そして甘辛い卵だれをからめて食べる宇和島鯛めしは、漁師町ならではの豪快なごちそう。 海でとれた小魚をすり身にして揚げたじゃこ天は、南予の食卓に欠かせない庶民の味。 香ばしく焼いて、そのまま、あるいはうどんに添えていただけば、この土地の暮らしの匂いが立ちのぼる。 南予を旅すれば、観光地化されきっていない、素朴で温かな伊予の素顔に触れることができる。

愛媛を味わうモデルコース

一泊二日なら、まずは松山を起点に据えたい。 初日は路面電車で街を巡り、松山城の天守から城下を見渡したあと、夕暮れとともに道後へ。 湯けむり立ちのぼる古湯に身を沈め、宵闇に灯る本館の幻想的な姿を心に焼きつけて一夜を過ごす。 翌朝は刻太鼓で目を覚まし、足を北へ向ければ今治。 レンタサイクルを借りて、しまなみ海道の海上散歩へ繰り出すのもいい。 時間があれば、海に最も近い駅のひとつ・下灘駅へ。 ホームの向こうに瀬戸内海だけが広がる光景は、旅の余韻をいつまでも引き留めてくれる。 二泊できるなら、二日目以降は南へ。 内子の白壁を歩き、大洲の城下に憩い、宇和島で鯛めしを味わえば、愛媛の「光と陰」、賑わいと静けさの両方を旅のなかに収めることができるだろう。 柑橘の旬を狙う冬、桜と新緑が城山を彩る春、祭りの熱気に包まれる夏——訪れる季節を変えれば、同じ道のりがまったく別の物語に姿を変える。 急がず、湯に浸かり、海風を受け、みかんを頬張る。 そんなゆるやかな時間の積み重ねこそが、伊予の国がくれる何よりの土産である。